무라야마교
무라야마교(일본어:
연혁
もともとこの位置には、明治末期に舟橋が架けられていた。事業として建設されたために有料で、しかも幅が約2.7 mしかなく揺れが激しいことから、危険なものであった。これが老朽化してきたため、永久橋として架け替える計画が出ていた[1][2]。
一方この頃、長野市の東隣に位置する町村が長野市と合併する計画が進行しており、その中の1つである吉田町は、合併条件として長野と須坂を結ぶ鉄道を挙げた。これを長野市長が積極的に支持し、長野市が一部を出資する形で長野電気鉄道を設立することになった。長野電気鉄道は1923年(大正12年)に資本金200万円で設立されたが、千曲川を渡る橋の建設費はその半額の100万円にも上ると見積もられ、ネックとなっていた。そこで、村山橋の架け替え計画に合わせて鉄道道路併用橋とすることを出願した。1924年(大正13年)に5月に許可が出て、11月1日に着工された[1][2]。
大正時代に建設された村山橋は、全長814.2 mで、車道の幅は5.5 m、鉄道の幅は3.8 mの鉄道道路併用橋であった。7連のトラス橋とコンクリート製桁橋11連、単純鋼板桁橋33連を組み合わせたもので、車道は2車線であった[3]。共用となっているのはこのうちトラス橋部分で、桁橋の部分は鉄道と道路がそれぞれ独立した橋となっていた。ただし独立部分を含めて監督は長野県が担当した。トラスは川崎造船所兵庫工場製であった。総工費は109万円で、1926年(大正15年)4月30日に橋が完成した。建設費は、独立している部分についてはそれぞれが負担し、共用しているトラス橋については、長野県が6割、長野電気鉄道が4割を負担した[1][2]。
権堂と須坂を結ぶ鉄道は、この年の6月28日に開通した。その後長野電気鉄道は、現在の長野電鉄屋代線などを建設した河東鉄道に9月30日に吸収され、河東鉄道が改称して長野電鉄となった。また道路はおよそ1年遅れて、1927年(昭和2年)7月に開通した[1][4]。
平成に入り、この村山橋は道路が2車線であり大型車の行き違いが困難であること、歩道がなく歩行者の通行が困難であること、老朽化が進展していることなどを理由に、架け替えが決定された。新しい村山橋は旧村山橋の上流側(南側)に隣接して建設されており、1990年度(平成2年度)に着手された。実際の工事には1998年度(平成10年度)から着手しており、まず2004年(平成16年)8月にI期工事として2車線が開通した。これにより、旧橋の2車線と合わせて往復4車線が確保された。引き続きII期工事が行われ、2008年(平成20年)12月22日に道路の残りの2車線が開通した[5][6]。これにより、旧橋の道路の使用が終了となり、旧橋は鉄道専用橋となった。
さらに新橋の鉄道部分の工事が進められ、旧橋の鉄道の通行は2009年(平成21年)11月6日終電までとなった。その後、列車を運休して切り替え工事が行われ、2009年11月9日から新橋での運行が開始された[7]。
新しい村山橋は全長837.8 mで、車道は3.25 m幅の4車線、歩道は3.5 mで両側歩道で、線路部は幅4.8 mである。軌道についてはロングレールを採用している。また6連のトラス橋と5連の鋼製桁橋の組み合わせとなっている[5]。
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1926年竣工の旧村山橋
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村山橋架け替えに伴う長野電鉄の線路付け替え工事
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架け替え後、右が旧村山橋
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 「信濃の鉄道橋」
- ↑ 2.0 2.1 2.2 市長のコラム. 須坂市 (2004년 7월 29일). 2011년 1월 23일에 확인.
- ↑ 事業の紹介:村山橋の歴史. 《国道406号線 村山橋II期線工事》. 長野建設事務所/須坂建設事務所. 2010년 5월 15일에 확인. 틀:リンク切れ
- ↑ 『信州の鉄道物語』
- ↑ 5.0 5.1 事業の紹介:事業概要. 《国道406号線 村山橋II期線工事》. 長野建設事務所/須坂建設事務所. 2010년 5월 15일에 확인. 틀:リンク切れ
- ↑ 村山橋第2期線工事道路部開通式が行われました. 《国道406号線 村山橋II期線工事》. 長野建設事務所/須坂建設事務所. 2010년 5월 15일에 확인. 틀:リンク切れ
- ↑ 長野電鉄村山橋関連情報. 長野電鉄. 2010년 5월 15일에 확인.
参考文献
- (1987년 3월 23일) 小林宇一郎・小西純一: 《信州の鉄道物語》, 第2版, 信濃毎日新聞社, pp.274 - 278쪽
- 小西純一 (1994년 9월). 信濃の鉄道橋. 《鉄道ピクトリアル》 (電気車研究会) 595: pp.52 - 56.